私の人生を豊かにした骨髄提供

まずは、骨髄バンクに登録したきっかけを教えてください。

看護学生の頃、よく献血に行く同級生がいて、私も付いていくようになったのがきっかけです。献血ルームでドナー登録ができると書いた張り紙を見て、特に高い志があったわけではなく気軽な気持ちで登録しました。それと、高校生の同級生が白血病になり、卒業後に亡くなったことを思い出したんです。医療に携わる看護学生になって、白血病や移植に少しずつ関心が向いていたのかなと思います。

登録後、ドナー候補になることを想定して何か準備をしましたか

最初にドナー通知が来たのは登録からおよそ10年後、33歳になりナースとして病棟で働いていたときです。それまでの期間は、「どうなっているのかな」、「私とはHLA型が合わないのかな」、と時々思い出すことはあっても日常に紛れてあまり意識しなかったですね。運動や食事など生活面も特に気にせず自由に過ごしていました。

1回目と2回目、ドナー通知が来たときの心境を教えてください。

最初にオレンジの封筒に入ったドナー適合通知が届いたときは、「やっと来た!」と思い、ドキドキしながら封筒を開けたのをよく覚えています。でも、内容を読むと段々緊張して「親に何て言おうか」と考えました。2回目は2018年。骨髄は2回まで提供できると聞いていたので、「もう一度通知が来るかな」とふと思い出したときにオレンジの封筒が届き、「また来た!」と思いました。

骨髄を提供するにあたり、ご家族の反応はいかがでしたか。

母はすごくショックだったみたい。やめて欲しかったと思いますね。でも、私の中ではやらないという選択はなかったです。誰かの役に立ちたいという強い気持ちがあったというより、登録してHLA型が合えば提供するのが当たり前と思っていたから。母は、今までも私が決めたことは最終的に後押しをしてくれて、今回も「この子が言うのなら」と了解してくれました。でも、最終同意の時に泣いている姿を見たら少し辛かっです。

2回目の時、私は結婚していました。夫に告げたところはっきりと反対はしませんでしたが、「本当にやるの?」と言っていたので、本当はやって欲しくなかったのだと思います。でも止めてもやるだろうという感じで、私の意思を尊重してくれました。母はと言うと、2回目の時もやはりショックだった様子。「自分の娘が患者だったら、ドナーの存在は有り難いし必要だと思う」と言いつつも、心配のあまり納得しきれない部分があったのだと思います。
「日本の骨髄バンクではドナーになって亡くなった方はいない」、と伝えても家族はやはり心配すると思います。情報が曖昧で不安なイメージを持つ人もいると思うので、過剰な不安を払拭するには正しい情報の発信が大事だと感じました。

看護師として忙しく働く中で、移植のスケジュール調整は大変でしたか。

1回目の骨髄提供のときは、病棟で交代勤務をしていたので日程は調整しやすかったです。スタッフに相談したら「わかりました、頑張って!」と快く送り出してもらい、特別休暇を利用して骨髄提供を行いました。2回目のときは部署が変わり、ちょうど新人さんが入ってくる慌ただしい時期だったし、スタッフの負担、家族の意見、自分の体のことを考えると、ドナーになりたい気持ちがあっても調整できるか不安でした。でも、同僚が「気にせずに行ってきなよ!」と背中を押してくれたので、少し迷惑をかけるけどやってみようと思いました。

二度の骨髄提供は、塩澤さんの人生にどんな影響を与えましたか。

周りからは「なかなかできないよ」と感心されますが、自分としては通知が来たら骨髄を提供するという選択はごく自然な流れでした。実際に提供して思うことは、ドナー提供者が見つかれば患者さんは少なからず勇気を持ちますよね。ドナーが決まれば生きる希望につながるだろうし。そう考えると誰かの役に立てたんだ、自分の人生はそれだけで少しは意味があるんじゃないか、そう思えたことで人生が豊かになったと感じています。

最後に、「START TO BE」のサイトをご覧の皆さまにメッセージをお願いします。

仕事が忙しい、家族がいるなど、一人ひとり置かれた状況は違うと思いますが、少しでも関心があるならドナー登録が患者さんにもたらす意味を考えたうえで登録してくれる人が増えるといいなと思います。私の場合、骨髄を提供したことにマイナス要素はなく、むしろプラスの経験でした。看護に生かせる経験になり、自分の人生にも深みが出たように思います。人の命に直接的に関われる経験は本当に貴重なので、ドナーに関心を持ったら正しい情報を入手して前向きに検討していただきたいです。ドナー登録をしてみようと思うその気持ちを大事にしてください。

聞き手:池田明香
記事:北林あい