3人娘に支えられて。臍帯血ドナーさんへありがとう!

お名前
星野智子さん
肩書き
臍帯血移植治療経験者
疾患名
急性骨髄性白血病
罹患時年齢
40歳

今日は急性骨髄性白血病で2013年に臍帯血移植を受けられた星野智子さんよりお話を伺います。

発病したのは何歳のときですか?

8年前の40歳のときでした。
前から体調が悪く、肌にボツボツがいっぱいできたので皮膚科に通っていました。それが熱を持ち、中から黄色い膿が出ていましたが皮膚科に言っても治りませんでした。後から聞いたら、それも白血病の悪さだったそうです。
その後、歯が痛くなったので、歯医者さんに行ったのですが、特に問題はないと。
でも、会社に行けないほど歯が痛くなってしまったので、「採血でもしてください」と願いして、やっとそこで分かったのです。
診断まで3週間くらいかかりました。
聞いたときは他人事のようで受け止められなかったのですが、これからの治療や副作用で髪の毛が抜けると聞いたときには、すごく号泣したのを覚えています。

医師の説明は誰と聞かれましたか?

主人と私の両親が一緒に聞いてくれました。
驚いたのは母が「ごめんね」と言ったことです。遺伝とかではないのに、そういう思いなんだなと。皆が受け止めら切れなくてパニックでした。

移植治療の説明を聞いたとき、どのように思いましたか?

移植は怖かったです。移植しないで治したいと主治医にもお願いしたのですが、次に再発したら移植と言われていたので、移植しかないと覚悟を決めました。
ドナーは、兄がいるのですが型が合わず骨髄バンクでも探したのですが、転院先で「臍帯血で行こう」と言われ、先生のおっしゃる通りにしました。
移植をしたのは41歳でした。

移植した時のご家は?

主人と、3人の娘達が高校1年生、中学3年生、中学1年生でした。
娘達は「寂しい!」って。寂しくて我慢できないと面会の時間外に主人と一緒に来たこともありました。
離れて暮らす両親は「とにかく良くなってほしい」と毎日毎日願ってくれていたそうです。

入院中にあったご家族とのエピソードを教えてください。

当時、中学生だった娘が、私が入院している間、3人分のお弁当を毎日作ってくれていました。母親にとって、お弁当が作れないとか夕食が作れないのは、すごく気になることだったのですが、安心して治療を受けることができました。本当に感謝しています。

お仕事はしていましたか?

介護職をしていました。職場の同僚は、施設の利用者さんと一緒に千羽鶴を折ってくれました。その千羽鶴を見たとき「絶対に元気ならなくちゃって!」思いました。

治療に関わった医師や看護師に対して、何か感じたことはありますか?

診断された時は、すごく孤独感を感じたのですが、先生や看護師さんに支えられている、家族皆に支えられているって、前向きに治療をすることができました。
入院期間は約2年弱でした。移植をしてからは、2ヶ月ちょっとで退院することができました。

退院するとき、どのように思いましたか?

大雪の日で、看護師さんから「こんな雪の日に帰るのは危ないから翌日にしたら?」って言われたんですけど、「絶対帰るっ!」って言って、張り切って帰りました。家に帰ったときは「またここで暮らせる」と幸せを感じました。

臍帯血を提供してくれたお母さんとお子さんに、今伝えたいことは?

臍帯血はドナーさんへお手紙を送ることができないので、出来ることなら元気になったこの姿を見てもらいたいです。いただいた細胞に毎日「今日もありがとう」って話しかけているんです。今生きていることが本当にありがたく、感謝して生きています。

これから臍帯血の提供を考えている方へメッセージをお願いします。

医療が発達しても、ドナーがいなければ治らない病気なので、命をつなげるチャンスがあること、ひとり赤ちゃんが生まれたら、もう一人の命を助けられるかもしれないっていうことを伝えたいです。

治療後、どれくらいでお仕事に復帰されましたか?

2年くらい経ってからでしょうか。週1回のパート勤務から始めて、2回、3回と増やして、現在は週4~5日仕事をしています。
職場では、たびたび「調子はいい?」と声をかけてくれるので、すごくありがたいです。

お仕事の他に、何か活動をしていますか?

骨髄バンクを推進する『神奈川骨髄移植を考える会』で、説明員として活動しています。活動をしてみて、たくさんの方が命を救うために一生懸命活動ををしていてくれているということに気が付きました。闘病中は情報がなく、一人で苦しかったんですが、一人じゃないっていうことを当時の自分に教えてあげたくなる。いい仲間とのご縁を頂いて、これからも命を救うために、みんなが元気になってくれるために、活動をしていきたいと思っています。

ご家族(3人の娘さん)の今のご様子は?

何事もなかったかのように普通に生活しています。それぞれ学校や仕事へ元気に通っています。当時お弁当を作ってくれた次女は調理師学校に進み、卒業式の弁論大会で当時のことを発表してくれました。「特別な時に食べる特別な料理ではなく、普段の料理こそが温かい」というメッセージでした。その時、嬉しくて涙してしまいました。
娘に「ありがとう!!」って言いました。「これからもずっと一緒に食事したいな~!」って。でも娘は今、保育園の調理師として働いているので、家では料理をすることは無くて、普段は私が作ってます。

治療を終えて、当時を振り返った今のお気持ちは?

当時は辛かったと思うんです。今はその8年間の時間フィルターを通して、辛いことを忘れているというか、その代わりに、生きてるしあわせがどんどん湧いてくるような不思議な感覚でいます。

START TO BEをご覧の皆様にメッセージをお願いします。

元気になれるチャンスがあることを知っていただき、自分にもそれができる!人を助けることができる!って前向きに考えてほしいと思います。

 

聞き手:古賀真美