1980年代-白血病は不治の病の代表格であり、化学療法をしても亡くなってしまう患者さんが多くいました。骨髄バンクはまだ設立しておらず、血縁者間での移植が始まったばかりの時代だったのです。
ご両親の意向で白血病とは告知されずに治療が始まりましたが、主治医から言われた偽の病名も治療内容も疑うことなく素直に受け入れていたそうです。当時はインターネット環境もなく、情報の収集や共有が簡単にはできません。ですが、それゆえに病気や治療のネガティブな側面も耳に入ってこなかったのが功を奏したようです。
病気と診断されたのはいつですか?
1986年10月、高校1年生の16歳でした。
診断の際、どのような説明を受けましたか?
時代が時代でしたので、告知は受けませんでした。後で分かったのですが、最初に入院した病院で、急性リンパ性白血病で余命3ヶ月と診断されたので、両親が先生に告知をしないでくれと頼んだそうです。
自分の病気についてどのように思っていましたか?
一応、偽の病名がついていたので。インターネットもありませんし、調べる術もなかったですし、案外そこら辺は素直だったのでそれを信じて、というかあまり病名にはとらわれずに治療を受けていました。
悲しかったこと辛かったこと、嬉しかったことはありますか?
16歳でしたので、辛かったのは容姿が変わること。髪の毛が抜けたり顔が丸くなったり、どんどん自分の外見が変わっていく姿を見て、なかなか自分の心で受け止めきれない時期がありました。(治療による)痛みと吐き気も辛いんですけど、どちらかというと外見が変わっていくことの方が辛かった。あとは、学校に戻れるかどうか、戻ったとしても普通に生活が送れるのか、先の見えない不安がありました。
嬉しかったことは、最初に入院していた病院が4人部屋で、親世代とかおばあちゃん世代の方達が同室だったんですが、 みんなカーテンを開けっぱなしで和気あいあいとして、とても良い関係でいられたこと。
私は親の前では絶対泣かないって決めていたので、夜中にメソメソ泣いていたんです。みなさんそれをご存じだったみたいですけど、知らないふりをしてくれて。そういう温かい部屋で過ごせたことがすごく良かったかなって思っています。
当初より骨髄移植は治療選択にあがっていましたか?
まず化学療法と放射線治療を受けていました。でも、それでは助からないということになりまして。当時、骨髄バンクはまだありませんでした。骨髄移植というのが神奈川で始まったばかりで、できるかもしれないというお話がまず両親にあったそうです。それで兄が検査をしたら私と骨髄の型が合いそうだから、移植ができそうだということが分かりました。それからですね、 骨髄移植っていう選択肢ができたのは。
ドナーのお兄さんの年齢は?
18歳です。高校を卒業して勤めたばかりの時でした。
骨髄提供を受けることについて説明はありましたか?
ありました。骨髄移植を受ける病院で、両親向けの説明と私向けの説明が先生からありました。その先生から「今までいた病院の治療と比べないでね、そんなに易しいものではないですから」って言われた時に、あれだけ放射線治療と抗がん剤で毎日吐き気と下痢と高熱と、自分が生きてきた中で一番辛い経験をしたのに、それよりもさらにつらい治療というのが自分の中で想像できませんでした。なので、「受けなくてもいいや」と思ったんです。
というのも、骨髄移植を受けなければ死んでしまうっていう事も知らなかったので、「私、化学療法でやってみます。3ヵ月に1回化学療法を受ければ治るって前の病院で言われました」って言ったんです。
先生たちは焦りますよね、もう移植しか道がないので。その時に先生が「3ヵ月に1回化学療法を受けていたら、3ヵ月後にまた髪の毛抜けちゃうよ?骨髄移植して治ればもう髪の毛抜けることないよ」って。
そういえばそうだな、また放射線かけたら髪の毛抜けてしまうし、移植して治ったらそのまま髪の毛生えてくる。「あ、じゃあ受けます。」年齢とか自分の性格とかあるかもしれないけど、それぐらいの気持ちですね、骨髄移植に踏み切ったのは。
現在のご職業は?
NPO法人『わたしのがん net』で共同代表を務めております。骨髄バンクのお手伝いをさせていただいたり、患者会に行って今の患者さんの声を聴いて、何が必要なのか、困っていることなどを伺いに回っています。
骨髄バンクに対する思いは?
活動する上で、良い関係でお付き合いさせていただいています。ドナーとなられた方も「コンビニに行ってくるね」みたいな感覚で、何年にドナーになったよと話されます。患者側からしたらとても大きなことをして下さったんですけども、さらっとお話ししてくれるそういう方たちです。お会いするだけで私の方が温かい気持ちになれるような方たちが活動してくださっています。
「START TO BE」を利用されている皆さんにメッセージをお願いします。
今ドナー登録されている方、既にドナーになられた方、みなさんのそういう善意で助からなかった命をつないでくださっていることに、本当に感謝しています。
患者さんとご家族の方には、どういう言葉をかけていいのか分からないのが正直なところです。辛い時っていうのは応援メッセージとか励ましの言葉っていうのが心に響かない、心に受けとめられるような隙間もないぐらい辛い状況であると思うんですね。なので、1日のどこかで自分を中心に考える時間を持って、自分自身でこんなに一生懸命やっている自分を温かく労ってもらいたい。人の言葉で癒される時もありますけども、そういう時はある程度自分に余裕が出来た時。そういうことも受け止められない時は自分自身で振り返って、今の自分に優しくしてもらいたいですね。
患者さんは、自分が病気になって誰かに迷惑かけてる、家族に迷惑かけてるって自分を責めるし、患者さんのご家族は、自分を犠牲にして生活をしなければならない。 ご家族もそういう長い時間を過ごすので、本当に自分のことだけをみる時間を作って自分を褒めてもらいたいって思っています。
羽賀さんのお話にもありましたが、私も同室の方々とおしゃべりをして気分転換をしたり、助けてもらったりして、辛い入院生活を乗り越える事ができました。お話を伺って、改めて人と人のつながりは大切だなと感じました。そして、羽賀さんはご自身の経験したことを今に伝える活動をされています。その活動を通して、誰かの想いと誰かの未来をつないでらっしゃるんだなと思います。
なお、インタビューでは触れてはいませんが、羽賀さんは骨髄移植後の23歳で第一子を、26歳で第二子を出産されています。移植後の妊娠出産は非常に珍しいですが、20歳前の場合は稀に卵巣機能が回復することがあるそうです。
聞き手:古賀真美
記事:石井稔子