インタビュー記事

支えられる側から、支える側に

闘病を機に院内患者会を立ち上げて12年

新井 辰雄さん (50代)
急性リンパ性白血病(ALL)に罹患

病気を独りで乗り越えるのは、辛く、困難です。やり場のない不安を分かち合え、ときにエールをくれる相手の存在が、暗闇を進む光と勇気をくれるもの。病院スタッフ、家族、ドナー、入院中に知り合った同病の友。多くのサポーターに恵まれ、無事に骨髄移植に成功。そして今、支えられた経験を生かし、支える側にまわって活動する50代男性のストーリーです。

家族の生活、仕事はどうする?平穏な日常を揺るがせた突然の告知

白血病が命に関わる病であることは知っていましたが、告知はあまりに突然で、危機感というか、実感がわきませんでした。「急性リンパ性白血病(ALL)」という病名を聞き、最初によぎった不安はもっと身近なこと。家族の生活と、仕事をどうするか。病気に対する不安は、その次でした。

体調がおかしいと感じたのは、微熱がきっかけです。そのうちに、通勤電車で座ったまま貧血になった。病院で診てもらい、風邪だというから抗生剤を飲んでも一向に熱は下がらず。今度は腸骨が痛み始め整骨院に通ったけどすっきりしない。微熱が続いていると伝えたところ、整骨院の先生に精密検査ができる病院をすすめられて受診。そうしたら「白血病かもしれない」と……。待ったなしで腰の骨から骨髄液を採取する「マルク」という検査を行い、今日にでも入院してほしいと言われました。「ちょっと待ってよ。急すぎる」。そんな心境でした。検査をしたその日の夕方には正式な病名がわかり、「急性リンパ性白血病(ALL)」と告知されました。

即日入院して、後日病院の許可をもらい会社に事情を説明に行きました。社内で病気による長期欠勤の前例はなかったですが、「治療を優先しなさい」と温かい言葉をかけてもらい、休職中も生活レベルを落とさずにすむよう様々な配慮をしていただきました。

快適だった入院生活。家族のような病院スタッフに感謝

白血病の治療は長期戦です。入院生活が長くなると、社会との断絶感、焦りが募りました。世の中の動向に触れると自分一人取り残された気分になるので、新聞は読むのをやめました。「死」に対する恐怖心もありましたよ。自分という存在が形としてなくなり、忘れ去られることが無性に怖く感じたことも。ただ、段階的に目標を立てられるのが長期戦のいいところ。半年、一年先の未来は描きづらいけど、寛解、ドナー探し、骨髄移植、生着と目の前の目標を一歩ずつクリアすることが、希望につながりました。

抗がん剤の副作用は、想像していたよりずっと軽く、正直、「こんなものか」という印象でした。ところが骨髄バンクを介してドナーが決まり、移植の前処置として行う放射線照射が始まると、倦怠感やのぼせが辛かった。食事もまったく喉を通りませんでした。それでも今になって振り返ると、「病院とは、こんなにも快適なんだ」という印象が強いですね。そう思わせてくれたのは、医師をはじめ、親身で明るい病院スタッフの存在です。今回の入院で、病院や医療者に対するイメージが随分変わりました。もちろん毎日見舞いに来てくれた妻、不安と希望を分かち合った同病の友、そして見ず知らずの私に骨髄を提供してくれたドナーにも感謝しかありません。病気をきっかけに巡り合えた人、温かいサポートの数々は私の財産です。

同病の人の光になりたくて院内患者会を立ち上げ活動中

移植が成功して退院、仕事にも復帰できました。復職した際は感染を考慮して時差通勤や、週3日出勤から始めるなど、自分に合う勤務ルールで働くことを会社に認めてもらいました。そろそろ通常の勤務体制に戻ろうとしたとき、髄膜炎が原因で意識を失い救急車で搬送、入院に。病院のベッドで意識が戻ると体にはカテーテルが……。退院後はそんなこともありましたが、今は体調も安定しています。

2006年、血液疾患の方が参加できる院内患者会を立ち上げました。きっかけは入院中、病棟の廊下で声をかけてもらった移植患者さんとの出会いです。移植を控えた私に、「大丈夫よ」と言ってくれた彼女の一言に勇気と元気をもらい、今度は自分が荒波を超える患者さんの道しるべになろうと思ったのです。立ち上げ時から続けているおしゃべり会は、70回を超えました。移植後、私は心が前向きになれず精神腫瘍科に通ったことがあり、おしゃべり会ではそんな体験談も話しています。病気を経験した当事者にしかわからない気持ちを共有する場作りを、これからも「無理し過ぎず、怠けない」で続けています。

取材/文 北林あい